量子コンピュータの基本素子・量子ビットのハードウェア実装(超伝導磁束編その3~初期化~)
その1~素子構造~
その2~超伝導リング詳細~
その2.5~ノイズ耐性~
では、具体的に超伝導磁束量子ビットの制御方法を見ていこう。まずは、量子ビットにデータを書き込む前に強制的にリセットを行う過程である「初期化」について説明する。
なお、量子ビットにおける初期化の意義など、細かい部分は「シリコン編その3」で述べている。この記事でも以前の記事に言及する部分が多いので、適宜参照して欲しい。
量子ビットの初期化
さて、肝心の初期化法だが…実は、それほど難しくはない。ここまで引っ張っておいて何だが、基本的にただ待つだけでよいのだ。
例えば文献[1]には、
The qubit is initialized to the ground state simply by allowing it to relax.
(訳:量子ビットは単に緩和させることによって基底状態へと初期化される)
とある。ground state とは「エネルギーが最も低い状態」のことであり、relaxとは「エネルギーが高い方から低い方に落ちる」ことを指している*1。
また、文献[2]では、
The qubit is thermally initialized to be in by waiting for 300 .
(訳:量子ビットは300マイクロ秒間待つことによって熱的に へと初期化される)
と記述されている。こちらは具体的に待ち時間にまで言及している。言うまでもないが、というのはground state(エネルギーが低い状態)のことである。thermally(熱的に)というのは、エネルギー緩和という物理現象が熱に関係していることを示している。
ところで、具体的に「エネルギーが最も低い状態」が右回り状態なのか左回り状態なのかは、超伝導リングに加えている磁場によって変わる。この記事では基本的に「最適動作点」での量子ビットを扱うので、エネルギーが低いのは「プラスの重ね合わせ」である。なので、もし初期状態が状態ならエネルギーが落ちて状態になるし、初期状態が元々状態であったのなら、何も起こらない。以上のことから、結局どのように量子ビットを初期化するのかをまとめると、
「300マイクロ秒ほど待てば自然に状態に落ち着く」
ということになる(図13)*2。
シリコン量子ビットの初期化には量子ドットのエネルギーを底上げするためのトリガー信号が必要であったが*3、超伝導磁束量子ビットではそのような明示的な操作は必要なく、勝手にエネルギーが落ちるのを待つ。単純な仕組みで初期化可能と言えば聞こえはいいが、これは要するに短時間で勝手にデータが消えるということを意味しており、量子ビットの性質としては決して望ましくない。できれば、普段はデータは消えにくいがリセット信号を入れると即座に初期化されるような能動的な仕組みの方が望ましいと、個人的には思う。
エネルギー緩和
さすがに「待つだけ」では内容が薄すぎるので、この機会にエネルギー緩和についても軽く触れておこう。 前回の記事では位相緩和について言及したので、バランスを取る意味合いもある。
上述したように、量子ビットのエネルギーが高い方から低い方に自然に落ちる現象のことをエネルギー緩和という*4。もっと情報科学寄りの言葉で「ビット反転エラー」と呼ぶこともある。0が1になったり、1が0になったりするエラーのことだ。当然、データの保存や演算の最中にエネルギー緩和が起きると、それはデコヒーレンスの原因となる。ちょうどデータが消えて欲しいタイミングでエネルギー緩和が起これば「初期化」と呼ばれるだけの話である。
位相緩和の原因としては磁場ノイズを挙げたが、エネルギー緩和は熱ノイズが原因となって起こる。要するに、量子ビットの持っているエネルギーが熱になって逃げてしまう、言い換えれば「冷めて」しまうのだ(図14)。量子力学的な観点からは、二準位系が結晶の熱振動の量子である「フォノン」という形でエネルギーを放出する現象であるとも言える。
ところで、超伝導磁束量子ビットではどのくらいの時間オーダーでエネルギー緩和が起こるのかというと、実験環境によっても違うので一概には言えないが、数マイクロ秒程度のオーダーのようだ。例えば、文献[3]では1.9マイクロ秒、文献[4]では4マイクロ秒という測定値が報告されている*5。先ほど初期化のためには300マイクロ秒待つ必要があると述べたが、エネルギー緩和は数マイクロ秒で起きるのに、なぜそんなに待たなければいけないのだろうか。おそらく、エネルギー緩和も量子力学的現象である以上確率的に起こるため、「100%確実に緩和が起こった。初期化は完了した。」と言い切るためには十分な時間的マージンが必要なのであろう*6。まあ、古い文献値をそこまで気にする必要はない。具体的な数値はともかく、「いわゆるデコヒーレンスには位相緩和とエネルギー緩和の二種類がある」という点を抑えておくだけでも、量子コンピュータを理解する上で役に立つと思う。
まとめ
最後にもう一度肝心な部分をまとめておこう。
量子コンピュータで計算を行う前に、量子ビットのデータを強制的にリセットする「初期化」と呼ばれる工程が必要になる。超伝導量子ビットの場合は具体的な操作は必要なく、待っているだけで量子ビットは自然に低エネルギー状態(ここでは状態)へとエネルギー緩和を起こすので、これをもって初期化とみなす。エネルギー緩和自体の時定数は数マイクロ秒程度であるが、実際の待ち時間はもう少し長く、この記事では300マイクロ秒という例を挙げた。
参考文献
[1] I. Chiorescu et al., Coherent Quantum Dynamics of a Superconducting Flux Qubit. Science 299, 1869 (2003)
[2] S. Saito et al., Parametric Control of a Superconducting Flux Qubit. Phys. Rev. Lett. 96, 107001 (2006)
[3] F. Yoshihara et al., Decoherence of Flux Qubits due to 1/f Flux Noise. Phys. Rev. Lett. 97, 167001 (2006)
[4] P. Bertet et al., Dephasing of a Superconducting Qubit Induced by Photon Noise., Phys. Rev. Lett. 95, 257002 (2005) (arXiv版はこちら)
*1:ちなみに、エネルギーが低い方から高い方に上がることはexciteといい、エネルギーが高い状態はexcited state(励起状態)という。
*2:具体的に何秒待つかはそれぞれの実験環境によっても違うだろうから、300マイクロ秒というのは単なる1例だと思ってほしい。
*3:シリコン量子ビットの記事でも、「量子ドットのエネルギーを引き上げた後は待つだけ」と表現した。しかし、「貯蔵電極」を経由する緩和は普通のエネルギー緩和よりはるかに短時間で起こりやすい。これは緩和しやすい状況を意図的に作り出す強制リセット機能であり、何もせずにただ待っているのとはちょっと違う。
*4:高温環境では低い方から高い方に行くことも含めることが多いが、今回のような低温環境では無視できる。
*5:古い文献ばかり読んでいるが、最近のものは改良されて性能が向上しているかもしれない
*6:そもそもエネルギー緩和時間が数マイクロ秒というのは、量子ビットが高エネルギーを保っている確率が約1/3まで減ってしまうまでの時間である。完全に緩和するまでには短くても数十マイクロ秒かかる。