量子コンピュータの基本素子・量子ビットのハードウェア実装(超伝導磁束編その2.5~ノイズ耐性~)
前回の記事では、超伝導リングに加える磁場を変化させることによって量子ビットのエネルギーの上下関係が入れ替わることを説明した。磁場を強くしていく途中で右回りの電流と左回りの電流のエネルギーが等しくなると「重ね合わせ状態」そのものがビットとなるが、この状態が最もノイズに強いため「最適動作点」と呼ばれている。少し寄り道になるが、今回はこのことについて少し深掘りしてみよう。
磁場に対するエネルギー変化
しつこいようだが、もう一度復習しよう。リングに加える磁場がより小さいと、右回りに電流を流す方がエネルギーが小さく、左回りはエネルギーが高い。磁場がちょうどになると右回りと左回りの「プラスの重ね合わせ状態」がエネルギーが低くなり、「マイナスの重ね合わせ状態」が高くなる。最後に磁場がより大きくなると、今度は左回りのエネルギーが低くなり、右回りが高くなる。このことを、磁場の強さを横軸としたグラフに表すと次のようになる(図9)。
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磁場を強くしていくと右回りと左回りのエネルギーの違いが減っていき、で点線のようにエネルギーがクロスして入れ替わる…と思いきや、なんと真ん中では「重ね合わせ状態の符号」でエネルギーが分裂する。そのため、全体としてはX印形ではなく、双曲線のような形のグラフになる*1。実は、この丸っこい形が重要なのだ。
磁場ノイズが加わると…
ここで、我々が意図的に超伝導リングに与えている磁場の他に、予期しない磁場が加わっているとしよう*2。向きは取りあえず上向きとする。この余計な磁場により、量子ビットはどのくらい影響を受けるのだろうか。
グラフの両端
まずは、図9グラフの、磁場がより大きい領域を考えよう。ただし、これから説明することは磁場が小さい領域でもそのまま成り立つ。
今、ノイズ磁場は上向きと考えているので、リングに加わっている磁場が想定より大きいということである。つまり、二準位のエネルギーは想定よりも離れていることになる(図10)。
また、このようなノイズ磁場は一般には一定ではなく、大きさや向きがランダムに変動している*3。ノイズ磁場が下向きになると、図10とは逆に量子ビットのエネルギーは想定よりも近づくが、次の瞬間にはまた離れているかもしれない。このように、超伝導リングにノイズ磁場が加わると、量子ビットのエネルギーがグラグラと揺れてしまうのだ(図11)。
では、エネルギーが揺れることの何が困るのだろう。例えば、以前シリコン量子ビットで解説した(そして超伝導磁束編でもこれから解説する)ように、量子ビットの制御(演算)は、量子ビットが持つエネルギーの差にちょうど等しいエネルギーを持つ電磁波を吸収させることによって行うのだった(詳しくはシリコン編その4を参照)。ノイズが存在すると、この電磁波の周波数をうまく選ぶことができず演算エラーを誘発する。また、詳しくは説明しないが、量子ビットのエネルギー差は重ね合わせの符号(位相)にも大きな影響を与える。エネルギーが揺らぐと「位相」に関する情報がどんどん壊れてしまい、重ね合わせ状態を維持することができなくなる。これが、いわゆるデコヒーレンスと呼ばれる現象である*4。
グラフの真ん中
では、図9のグラフの真ん中、磁場がちょうどの領域に移ろう。先ほどと同じように、上向きのノイズ磁場が存在すると仮定する。この時のエネルギーの変動を見てみよう(図12)。
なんと、グラフが丸っこい形をしているおかげで真ん中付近はほぼ平らになっており、ノイズ磁場によるエネルギー変動が先ほどと比べて少ないのである。このことを専門用語では「磁場に対する微分係数がゼロである」という。これにより上述したようなデコヒーレンス現象が起こりにくくなり、量子ビットの寿命は1桁近く長くなる(文献[1])。
以上が、磁場がの領域で量子ビットがノイズに強くなる仕組みであり、この領域が「最適動作点」と呼ばれる理由である。
参考文献
[1] K. Kakuyanagi et al., Dephasing of a Superconducting Flux Qubit. Phys. Rev. Lett. 98, 047004 (2007)
*1:正確には、を過ぎて一度エネルギーが離れた後、で再び近づく…という周期性がある
*2:ノイズ磁場の具体的な原因は色々考えられる。地磁気かもしれないし、実験装置類も電子機器なので怪しい。だが、最も致命的な原因はチップそのものが持っていることが多い。これは超伝導量子ビットに限ったことではないが、そもそもチップを構成する原子がスピン(磁性)を持っていると、それが磁場ノイズの一番の原因になる。例えばアルミニウム原子はスピンを持っている。シリコン原子はスピンを持たないが、一定確率でスピンを持つ同位体が混じっている。
*3:一定時間の間にノイズが変動する頻度のことをノイズの周波数という。周波数という言葉はsinやcosのように規則正しい周期振動に使うようなイメージがあるが、このようにランダムな変化に対してもよく使う。ノイズは周波数によって色々な名前がついているが、1/fノイズ、ガウシアンノイズ、ホワイトノイズあたりが有名である。
*4:実は、デコヒーレンスには大きく分けて2種類ある。ここで説明した現象は専門用語で”位相緩和”と呼ばれる。もう片方はエネルギー緩和である。