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不確定な世界

科学の話題を中心に、勉強したことや考えたことを残していきたいと思います

量子コンピュータの基本素子・量子ビットのハードウェア実装(シリコン編その3~データの初期化と読み出し~)

量子テクノロジー

その1~素子構造~

その2~スピンとは何か~

 

今回は量子ビットの初期化と読み出しについて解説する。本当は初期化→データ書き込み(演算)→データ読み出しの順で説明したかったのだが、本デバイスは設計上初期化と読み出しを切り離すことが難しいので、書き込みは後に回すことにする。

 

目次

初期化の必要性

既に何回も述べたように、今紹介しているシリコン量子コンピュータでは、電子のスピンを量子ビットとして用いている。スピンの向きによってデータを表すのだ。しかしスピンにデータを書き込みましょう、といっても今現在スピンの向きが分からないと制御のしようがない。実際、チップが目の前にあってもその中の電子スピンがアップなのかダウンなのか、はたまた重ね合わせ状態なのか、最初はわからないのだ(専門用語では、これを混合状態という)。なので、量子コンピュータ使用前にスピンの向きを強制的に揃える必要がある。これが量子ビットの初期化だ。普通のコンピュータで言えば、メモリに強制的に一律のデータを上書きする、物理フォーマットに相当する。ただし、量子ビットは極めて不安定であり、せっかく初期化しても使用せずに放っておくだけですぐにまたスピンの向きがわからなくなる*1。そのため、量子ビットを使おうとする度にまずは初期化をする必要があるのだ*2

 

なお、ここから先の説明はそれなりに難しくなる。理屈抜きにとにかく「何をしたらどうなるのか」が手っ取り早く知りたい方は、上記目次から最後のまとめの部分に飛んでもらいたい。

 

自然はエネルギーが低い方に行こうとする

 具体的な話を始める前に一つだけ頭に入れておいて欲しいことがある。

それは、「自然はなるべくエネルギー(より正確にはポテンシャル・エネルギー)が低い方に行こうとする」ということだ。例えば、高いところにある物が落下するのは、位置エネルギー(ポテンシャル・エネルギーの一種)が低い方が安定するからだ。そもそも、量子ドットに電子が閉じ込められているのも、(ポテンシャル・)エネルギー箱の底にハマっているからだった。また、D-Wave量子コンピュータについて調べたことがある方は、以下のような図を見たことがあると思う。D-Waveの動作原理である量子アニーリングも、量子が自動的にエネルギーの低い方へ向かうことを利用しているのだ。

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図9 エネルギーが低い方に落ちていく

 

スピンの初期化

 やっと本題に入ることができる。まったく分からないスピンの向きを、実際にはどのように揃えるのだろうか。まずは以前にお見せしたチップ素子の写真を再掲しよう。

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図10 SEM写真(再掲)

 

初期化の説明に必要なのは、①量子ドット構成用電極のうちG4電極と、②量子ドット、それから③貯蔵電極だ。

ここで、量子ドット(の中の電子)と貯蔵電極(の中の電子)のエネルギーを比較してみよう。

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図11 エネルギーの比較

 

横軸のDは量子ドット、Rは貯蔵電極の位置を表している。量子ドット(D)よりも貯蔵電極(R)の方がエネルギーが高いことがわかる*3。なお、量子ドットには電子は1つだけだが、貯蔵電極には電子が大量に存在しており、「電子の池」状態になっている。

ここで、量子ドット近くにある電極G4の電圧を適当に調節して、アップスピンのエネルギー>貯蔵電極のエネルギー>ダウンスピンのエネルギーとなるように、量子ドットのエネルギーを底上げしてみよう。

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図12 量子ドットのエネルギーを上げる

 

今、スピンはアップなのかダウンなのかまったく分からないので、場合分けして電子の振る舞いを見ていこう。

 

ダウンスピンの場合

この場合、特に何も起こらない。ダウンスピンはエネルギーが低いため、電子は安定しているのだ。

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図13 ダウンスピンでは何も起こらない

 

アップスピンの場合

では、スピンがアップだった場合を見てみよう(図14左)。ここからが見ものだ。

前述したように、自然はエネルギーが低い方に進む。図を見て察した方もいるかもしれないが、スピンがアップの場合、エネルギーが高く居心地の悪い量子ドットから、よりエネルギーの低い貯蔵電極の方に移動するのだ。もちろん、このとき一時的に量子ドットは空になる。この現象は自然に起こるので、電極G4電圧の調節後、ただ待っているだけで良い(具体的には100マイクロ秒程度)。

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図14 アップスピンでは、貯蔵電極の方が安定

 

次の説明が初期化を理解する最後の山場だ。既に述べたように、貯蔵電極の中には電子がたくさんいる。量子ドットが空になってから時間が経つと、貯蔵電極の中の電子のうち、たまたまダウンスピンを持っているものが1つ、量子ドットに移動してくるのだ(図15右)*4。なぜなら、ダウンスピンの電子にとっては、貯蔵電極にいるより、量子ドットに入った方がエネルギーが低いからだ。この現象も、ただ100マイクロ秒待っているだけで自然に起こる。

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図15 時間が経つと、量子ドットに電子が戻ってくる

 

ぐちゃぐちゃ説明したが、結局何をしたかというと、量子ドット付近の電極の電圧を調節してから、ただ時間が経つのを待っていただけだ。電子がダウンスピンだと何も起こらず、アップスピンだった場合には電子が貯蔵電極に逃げ、空になった量子ドットにダウンスピンの電子が入ってくる。最初のスピンの向きがどちら向きであろうが、最終的にスピンはダウンになっている。つまり、スピンがダウン状態に初期化された、ということだ。もちろん、一連の処理が終わったら電極の電圧を再調整し、量子ドット内のエネルギーが貯蔵電極に比べて低い状態に戻す。このようにして、データの書き込みや演算の準備が整う。

ちなみに、チップを製造してから初めて量子ドットに電子を注入する際にも、まったく同じ仕組みが適用できる。

 

 

データの読み出し

 では次に、量子ビットのデータ読み出しに移ろう。スピンは初期化されたあと、何らかの演算が行われ(演算については次回の記事で説明する)、何らかの重ねあわせ状態になっているものとする。重ねあわせ状態にあるスピンを観測すると、重ねあわせの確率に従い、アップかダウンのどちらかが観測値として得られる。これが教科書的な筋書きだ。では、現実のデバイスでは、そのような観測をどのように実現するのだろうか。ポイントになるのは、チップ素子写真の④、「単電子トランジスタ」の機能だ。その説明のため、まずは「普通のMOSトランジスタ」の動作原理から入るのが良いだろう。

 

MOSトランジスタ

 とはいえ、MOSトランジスタの動作原理はネットで調べればいくらでも出てくるので、軽い説明で十分なはずだ。pnp型のMOSトランジスタは、図のように、正に帯電したP型半導体に、負に帯電したN型領域が埋め込まれた構造をしている。

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図16 MOSトランジスタ

 

ここで、ソース電極とドレイン電極の間に電圧をかけても、N型領域とP型領域の境目には大きなエネルギーの壁があり、電子はその壁を越えられないため、電流は流れない。ここで、ゲート電極に正の電圧を加えると、ゲート電極の真下にP型領域内の電子が集まり(絶縁膜があるので外に流出することはない)、この部分が負に帯電して一時的にN型領域が形成される。そのため両端のN型領域が繋がり、電流が流れるようになる。これが、MOSトランジスタの大まかな原理だ。

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図17 MOSトランジスタの動作原理

 

 

単電子トランジスタ

 次に、単電子トランジスタ(以下SET)の動作原理を説明する。図はチップ写真のSET部分を拡大したものだが、これ見てもわかるように、量子ドットとSET回路はかなり近い位置にある。これがポイントだ。

 

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図18 SET部分拡大

 

図のように、SET回路の端に電圧をかける。当然、電子は左から右に流れようとする。しかし、量子ドットに電子が入っていると、ドット内の電子とSET回路に流れる電子が電気的に反発するため、SETに電流が流れないのだ。ドット内の電子による電気的バリアはクーロン障壁と呼ばれている。一方、量子ドットから電子がいなくなると、クーロン障壁がなくなるので、SETに電流が流れる。

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図19 単電子トランジスタの動作原理

 

ここで、初期化のことを思い出していただきたい。量子ドット内の電子がダウンスピンならドット内に留まり、アップスピンだったら貯蔵電極に逃げるのだった。つまり、ドット内の電子がダウンスピンのときにはSETに電流が流れないが、アップスピンの場合SETに電流が流れる。SETに電流が流れるかどうかを検知することで、ドット内の電子がアップスピンだったのかダウンスピンだったのかを判定できるのだ*5。これも前述したことだが、量子ドットが空になってから大体100マイクロ秒で電子が再びドットに入り、SETの電流は止まる。この100マイクロ秒程度のパルス電流は、I/Vコンバータで電圧パルスに変換され、パルスカウンタなどの装置でカウントされる(そのあとはコンピュータで統計処理などが行われる)。これが、「スピンを観測する」ということの正体だ。

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図20 スピンの観測

 

加えて、観測後にスピンは自動的にダウンになることにも注目したい。この記事の最初の方に、量子ビットを使う前には必ず初期化が必要であると述べた。このデバイスでは、データの読み出し時に自動的に初期化が行われるため、必要であれば測定後すぐに次の演算に移ることができるのだ。

 

まとめ

話が長くなってしまったので、「初期化と読み出し」には結局何をすれば良いのかをまとめておこう。

1.量子ドット付近の電極G4の電圧を調節する

2.一定時間待つ

  もし電流が流れなかったら→電子はダウンスピンだったことが分かる

  もし電流が流れたら→電子はアップスピンだったことが分かる

3.一定時間待つことにより、自動的にダウンスピンへの初期化が行われる

4.必要なら次の演算を行う

5.1に戻る

 

量子力学なんて所詮ただのテクノロジーだ

量子力学の話になると、やたらと観測という言葉が一人歩きしている感がある。場合によっては人間の主観や意識などの哲学的領域に話が及ぶこともある。量子力学を魔法のような学問だと思っている人もいるらしい。このような現実に動作するデバイスの仕組みを知ることによって、「量子力学なんて所詮ただのテクノロジーなんだ」と多少なりとも現実味を持っていただければ幸いである。 

 

最後に

さて、次回は量子ビットへのデータの書き込みおよび演算の仕組みを解説する。もしかしたら、量子ゲートまで話に加えるかもしれない。

その4~データの書き込み・演算~

*1:いわゆるデコヒーレンスと呼ばれる問題。この記事では扱わないが、いずれデコヒーレンスについての解説記事も別に書きたいと思っている。

*2:初期化については量子力学量子コンピュータの教科書には殆ど記述がなく、アルゴリズムの章などでは「N個の量子ビットが|0>状態に準備されているとする」などと、最初から量子ビットが初期化されている前提で話が進むことが多い。しかし、実際のデバイスを動作させる上で、初期化は非常に大事なプロセスだ。初期化の精度が中途半端だと、そのあとの全てのプロセスが信用できないものになってしまう。量子コンピュータのハードウェア技術者を目指す方は、このような教科書に載っていない部分についても意識しておいた方がいいだろう。

*3:正確には、貯蔵電極のエネルギーは「帯」になっているのだが、ここではフェルミ準位のみに簡略化している。

*4:エネルギーが低い方に落ちていくなら、量子ドット内でアップスピンからダウンスピンに直接落ちたりはしないのだろうか。もちろん、それも可能ではある。しかし、ここでは説明していない専門的な理由により、貯蔵電極に落ちていく確率の方がはるかに高い。

*5:電流が流れたかどうかだけ判断できれば良いので具体的な数値にあまり意味はないが、このとき流れる電流の大きさは大体500ピコアンペア程度である。