不確定な世界

科学の話題を中心に、勉強したことや考えたことを残していきたいと思います

量子コンピュータの基本素子・量子ビットのハードウェア実装(シリコン編その2~スピンとは何か~)

その1~素子構造~

 

前回の記事で述べたように、シリコンチップの量子ドットという構造の中に電子が閉じ込められている。シリコン量子コンピュータでは、この電子がもつ「スピン」にデータを埋め込むわけだが、そもそも「スピン」とは何なのだろうか。

 

電子は自転している

電子をはじめとする素粒子は、生まれつきいくつかのパラメータを持っている。ポケモンが「こうげき」や「すばやさ」といったパラメータを持っているのと同じように、素粒子は重力に関係する「質量」と呼ばれるパラメータや、電気的な性質を表す「電荷」と呼ばれるパラメータを持っている。「スピン」もそのような基礎パラメータの一つであり、素粒子が「自転」している様子を表すパラメータだ。

ただし、素粒子は本当の意味で回っているわけではない。何か力が働いて回っているのでもないし、止めることもできない。素粒子というのは生まれつき、このような不思議な「自転」をしているのだ。

 

電子は電気であると同時に磁石でもある

さて、一般的にはスピン=自転と言えば十分なのだが、ここではもう一歩踏み込んで説明する。前述したように、素粒子(以下、電子に限定する)は電荷を持っており、電荷を持った物質が運動(ここでは自転)していると、磁場が発生するのが自然の摂理だ。電子の自転は止めることができないので、磁場の発生も止めることができない。すなわち電子は生まれつき、磁場を発生させる性質を持っていると言っても良い。つまり、電子とは電気であると同時に、磁石でもあるのだ(図4)。

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図4 電子は磁石でもある

 

 実を言うとこの先、量子ビットの性質を説明するうえで、電子が自転していることはそれほど重要ではなく、電子が磁石であることの方がポイントになる。なので、ここでは思い切って自転のことは忘れてしまい、電子に内在している磁石としての性質のことを「スピン」と呼ぶ事にする(スピンという言葉のイメージからは離れてしまうが、単なる名前だと割り切って欲しい。猫にポチ、犬にタマという名前を付けたようなものだ)。

加えて、質量や電荷は一定の数値で表されるが、「スピン」は少し事情が異なる。スピンというのは磁石なのでS極とN極を持っている。そのため、単なる数値ではなく、「S極がどっちを向いているか」という「向き」のことも考える必要がある。そして、その「向き」は量子力学の原理に従って「上向き(アップスピン)」か「下向き(ダウンスピン)」の2種類しかないのだ。

 

スピンの向きはどうやって見分ける?

ところで、ここに電子があったとして、そのスピンの向きに区別がつくのだろうか?人間の感覚だと上下と言われるとつい重力に対する方向と思いがちだが、スピンは重力とは関係がないパラメータだ。実を言うと、真空中に電子がポツンと置いてあるだけではスピンの向きは上下の区別がつかない(このように上下の区別がつかない状況をスピンが縮退しているという)。

スピンは磁石であり、磁石は磁石に反応する。スピンの向きを区別するには、向きの基準となる磁場を外部から与える必要があるのだ(基準となる向きを量子化軸という)。

図で書くと次のようになる。外部磁場に対して反対方向を向いている方が、NとSが向かい合うので安定している。これを下向き(ダウン)スピンという。磁場に対して同じ方向を向いていると、磁石が反発して不安定だ。この状態を上向き(アップ)スピンという。

このように、スピンの向きは外部磁場に対して平行か反平行かで決まる。もし外部磁場が(普通の意味での)横向きにかかっていたら、スピンが右を向いている時がアップ…なんてことになる。前回の記事の図2で、チップに磁場がかかっていると説明したが、これはスピンの向きに区別をつけるためのものなのだ。

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図5 電子スピンの向きは磁場によって区別される

 

エネルギー準位

物理学では、安定であるとはエネルギーが低いことを表す。不安定というのはエネルギーが高いことだ。つまり、磁場をかけることによって、スピンがダウンの時は電子のエネルギーが下がり、アップの時はエネルギーが上がる、と言い換えても良い。このように、磁場の中でスピンの向きによってエネルギーが変わることを「ゼーマン効果」という。また、図6はスピンの向きによる電子のエネルギーの違いを表したものだが、このような図をエネルギー準位図という。

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図6 エネルギー準位図

 

なんでこんな話をしたのかと言えば、エネルギー準位図というのは個別の物理系を一般化するときに便利な方法だからだ。最初に、量子コンピュータのハードウェアには液体分子や超伝導回路など、たくさんの種類があることを述べた。このような色々なハードウェアを統一的に扱いたい場合がある。だからこそ「量子ビット」という言葉があるのだが、「ビット」というのは情報科学の手法であり、実際の物理現象を扱うハードウェア技術者にとっては抽象的すぎる。そこで、様々なハードウェアを「エネルギー」に換算することで、物理学の手法で扱える範囲内でハードウェアを抽象化することができるのだ。このような事情で、物理学者は「量子ビット」のことを「二準位系」と呼ぶことがある。

 

重ね合わせとブロッホ

だいぶ記事が長くなってきたが、これで最後だ。

前述のように、スピンはアップかダウンかどちらかの向きしか向くことができず、中途半端な方向にはならない。しかし、アップとダウンの「重ね合わせ」状態になることはできる。スピンがアップなのかダウンなのか、人間が知らないだけというわけではない。重ね合わせ状態にあるとき、スピンは本質的にアップでもダウンでもない状態であり、観測を行うことでどちらかに確定する。なんとも不思議な概念だが、量子力学とはそういうものだと認めてもらうしかない。

重ね合わせは必ずしもアップ50%+ダウン50%というわけではない。例えばアップ30%+ダウン70%などという重ね合わせも可能だ。このように、重ね合わせの確率の重みのことを「ポピュレーション」という。また、重ね合わせを考えるとき、アップ+ダウンのように足し算で表すだけでなく、アップ-ダウンのように「マイナスの重ね合わせ」を考えることもできる。それどころか虚数iを使って、アップ±iダウンのように虚数の重ね合わせも存在するのだ。このような重ね合わせの符号のことを「位相」と呼ぶ。「どのような確率・位相の重ね合わせ状態なのか」が、量子ビットにおける「情報」となる。

スピン(量子ビット全般)の重ね合わせを絵に描くときには、「ブロッホ球」を使うと便利だ(図7)。

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図7 ブロッホ

 

球の北極がアップスピン、南極がダウンスピン、赤道が50%の重ね合わせに対応しており、ベクトルの方向でスピン(量子ビット)の状態を表現できる。ここで、ブロッホ球のベクトルが横を向いているからといって、ハードウェアとしてのスピンが横を向いているわけではないことに注意して欲しい。ブロッホ球は「重ね合わせ」を図で表現するために用いる数学的な手法だ。

下の図8にいくつか使用例を挙げる。なんとなく雰囲気を掴んでくれれば良い。

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図8 ブロッホ球使用例

 

量子ビットを絵で表せ」と言われたとき、物理学的な手法で扱いたい場合はエネルギー準位図による二準位系を使い、物理現象のことは一旦忘れて数学的に厳密に扱いたい場合はブロッホ球を使う、というのが妥当な使い分けだろう。

 

今回はここまで

想定していたよりだいぶ長くなってしまった。次回の記事ではスピンの初期化と測定(データ読み出し)について説明したい。

 

その3~データの初期化と読み出し~

 

 

量子コンピュータの基本素子・量子ビットのハードウェア実装(シリコン編その1~素子構造~)

はじめに

 量子コンピュータについて、”0と1を同時に計算する”という程度には知っている人も多いだろう。しかし、具体的に量子コンピュータのチップにはどんな回路が載っていて、どのようにハードウェアが駆動するのか?という部分は殆ど知られていないのが現状だと思う。

 

量子コンピュータのハードウェアには光を用いるもの、液体分子を用いるもの、超伝導回路を用いるものなど、様々な方式がある。この記事では、現在のコンピュータに比較的近いと思われるシリコンチップへの量子ビット実装について、論文を読んでわかったことをまとめていく。

 なお、参考文献としては主に

M. Veldhorst et al., An addressable quantum dot qubit with fault-tolerant control-fidelity. Nature Nanotechnology 9, 981–985 (2014).

を用いている。

 

シリコン量子ビットチップの素子概観

以下の図1に量子ビットチップの概観を示す。シリコン基板に酸化膜が皮膜してあり、その上にアルミニウムの電極や回路が載っている。素材や基礎的な構造は案外普通のICチップなどと変わらず、通常のMOS技術によって作成されている。既に十分成熟した半導体技術や量産ラインをそのまま利用できるのがシリコンで量子ビットを実装するメリットの一つなのだ。

 

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図1 チップの概観

 

さらに、チップ素子を上から見た電子顕微鏡写真がこちら(写真は参考文献より転載)。

 

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図2 SEM写真(参考文献より転載)

 

各回路の役割

とりあえず詳しい説明は後回しにして、各回路の役割をざっと説明しよう。

 

①量子ドット構成用電極

 G1~G4およびCとラベルが貼られた電極は、量子ドットという電子を閉じ込めるための一種の「箱」をつくるために使用する。

その中でも特に、電極G4は量子ビットのデータを初期化(フォーマット)したり読み出したりするのにも用いる(詳しい説明は後述する)。

 

②量子ドット

この部分が量子ドットいう一種の箱になっており、矢印付きの青い球が、閉じ込められた電子を表している。量子ビットとしてのデータは、この電子の「スピン」によって表現される(スピンについては後述)。量子ドットというと難しそうだが、要は電子の周りの電極にマイナスの電圧をかけることにより、電子を電気的な圧力で押さえつけることで、電子を閉じ込めている状態だ。

量子力学を教科書で学んだことがある人には、例題として解いたはずの「井戸型ポテンシャル」を思い出してもらいたい。図3のように、井戸の真ん中あたりに粒子(ここでいう電子)の存在している確率が高い、というような計算をしたはずだ。

 

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図3 井戸型ポテンシャル

 

量子ドットのことを「一種の箱」とぼかしたが、少し専門的に言えば電極によってこのような井戸型ポテンシャルをつくっているのだ。最先端のテクノロジーを理解するうえでも、教科書レベルの例題が意外に役に立つものだ。

 

③貯蔵電極

緑の電極に書いてあるRは、Reservoirのことで、(電子の)貯蔵庫を表す。前述のように、量子ドットには電子が閉じ込められているのだが、「そもそも、その電子はどこから持ってきたんだ」と思った方もいるかもしれない。実はその電子はこの電極から配給されるのだ。また、データの初期化や読み出し時の補助回路としても働く。

 

④単電子トランジスタ(データ読み出し用回路)

この部分は、単電子トランジスタ(SET:Single Electron Transistor)という回路を構成している。詳しい動作原理は後述するが、この回路に電流が流れるかどうかを検出することで、スピンの「観測」、すなわち量子ビットのデータ読み出しを行う。

 

⑤データ書き込み / 演算用回路

量子ビットへのデータの書き込みや演算は、この回路に交流電流を流すことによって行う。

 

⑥外部磁場 

チップ全体に1.4テスラという強力な磁場が与えられている。あまりピンと来ないかもしれないが、方位磁石(コンパス)と反応する地球磁場の大きさがおよそ0.00003テスラであり、一般的に冷蔵庫にメモを貼ったりするための磁石の強さが0.005テスラ程度である。とは言っても、オーディオ・スピーカーに内蔵されている磁石がちょうど1テスラ程度であることを考えると、家電製品に内蔵される磁場として特別大きいわけではない。なぜこのような磁場が必要なのかについては後述する。

なお、ついでにここに書いておくが、チップは希釈冷凍器と呼ばれる特殊な冷凍器に入れられ、50ミリケルビンという、殆ど絶対零度の超低温状態に保たれる。量子力学的な現象は極めてデリケートであり、熱雑音がある環境では使い物にならないからだ。ちなみに希釈冷凍器の価格は億単位。磁場はともかく、冷凍器が必要である限り、量子コンピュータを家庭に1台、というわけにはいかないようだ。

 

とりあえす今回はここまで

量子コンピュータのハードウェア・チップについて、概略は大体説明できたと思う。次回の記事では、スピンの概念について説明したい。

 

その2~スピンとは何か~